2006年06月26日

GIMME SOME BLUES(後編)

後編です。ここから読み始めた方は前編からお読みいただければありがたいです。
では再開です こちら↓からどうぞ。


1968年にリリースされたこのセッション・アルバムは瞬く間に評判となりビルボードでのチャートも最高11位まで駆け上った。これが契機となり海を隔てたイギリスでも一躍セッション・ブームが巻き起こることになる。その年のゴールド・ディスクも獲得している。

当時コロンビア・レコードのプロデューサーに就任していたかのマルチ・プレイヤーはこのメンバーでライブとそのアルバム制作を行なうことを決め、途中でダウンした彼を再度誘いグレイトフル・デッドのマネージャー宅で3日間のリハの後、フィルモア・イーストでのライブに臨んだ。これは本編とライブでのリズム隊が違うため、必要なリハであった。
アルバムで代役を買って出たギタリストは都合が付かず、結局彼が通しで3日間のライブを行なう手はずだったが、3日目にしてまたもや睡眠不足でダウン、その代わりをカルロス・サンタナやスティーブ・ミラー、エルヴィン・ビショップなどが務めた。(註E)
 

実はこのライブでもう一人ギタリストが登場している。
オリジナルのレコード版では収録されていなかったと思うが、新進気鋭のブルース・ギタリスト―日本ではびっこでアルビノという可哀想な紹介のされ方をしているギタリストだ。

彼が経営していた「フリックル・ピックル」という店で時々ライブに出ていたテキサス出身のこのギタリストは、この時のステージで彼から紹介をされている(後のデジタル・リマスター版には収録)。 
 
彼に対抗心を燃やし、彼と同じ曲をさらにワイルドに演奏し、「俺こそは白人最高のブルース・ギタリストだ」と宣言した(と思える)この青年(実際は彼と1歳違い)が同じステージで彼から紹介を受けるというのも興味深い。
 

思えばこの頃が彼の絶頂期だった。
ギターも59年のレスポール・サンバーストに持ち替え、持ち前の音色がさらに

「艶があって伸びのいい」サウンドへと発展していた。
翌1969年、今度は気の合う仲間と閉館が決まったビル・グラハムのフィルモア・ウエストに出演、

名演を繰り広げている。単にブルースというだけでなくジャズ的な奏法も披露している。
 

だが、1970年を境に彼は1〜2年の間ギターから遠ざかってしまう。
それ以前から不眠症の対策で服用していたと思われる精神安定剤やドラッグの影響で引きこもったり無気力ぶりが目立つようになってきた。
そんな彼を心配してカルロス・サンタナや他の友人が彼の許を訪れ、辛抱強く彼を説得し続けた。

その甲斐あってか、彼は次第に自分を取り戻し、映画音楽を手がけたり、大学で音楽学の教鞭を執ったりする日々が続く。
彼はブルースだけでなく以前自分のバンドでもやろうとしていた
全てのアメリカン・ミュージック―彼に言わせると、人々の会話や雑踏、
木々のざわめきさえ音楽である―やルーツ・ミュージックといったものに深い関心を示し、
そういうものを掘り下げる活動も行なっていた。
 
一体、白人最高のブルース・ギタリストが何人いるか知らないが、僕にブルースへの道を開いてくれ、ブルースの素晴らしさを教えてくれたのは彼である。

聞きやすいフレーズ、滑らかで艶があって伸びと張りのあるトーン…彼の演奏にはそういったものがぎっしり詰まっている。
彼は他の人も言っているように白人がブルースを演奏するスタイルを色々考え、

模索していた人だと思う。
だからこそより洗練されたスタイルのプレイが新鮮に聞こえたんじゃないかなと思う。
 

彼―彼の名はマイク・ブルームフィールド。
僕のフェイバリット・ギタリスト5本の指に入る。

彼を招いた大物フォーク・シンガーとは、言わずと知れたボブ・ディランで、
彼の横でその時初めてオルガンをプレイしたのはアル・クーパー、
そうして出来上がったのが「Like A Rolling Stone」であり
アルバム「追憶のハイウェイ61」である。
フィルモアのステージで彼に紹介されたのがジョニー・ウィンターである。
 
彼は歩く時も猫背で、ギターを弾く時も首と背中を直角近く曲げていた。
パーフェクトなギタリストではなかったかもしれないが、いつも自分の感情に
素直にエモーショナルなギターを弾いた。
身体全体でリズムを取り、キメのチョーキングでは右手を振り上げた。
・・・彼のギターはいつも歌っていた。
 

1980年11月、サンフランシスコでのボブ・ディランのステージに飛び入りした彼の姿があった。
ディランは彼とのレコーディングの思い出を交えながら彼を紹介した。

そして一緒に「Like A Rolling Stone」を演奏した。ディラン・セッションから15年の時を隔てて・・・。
 
それからわずか3ヶ月後、彼のキャリアは突然終焉を迎える。

1981年2月のある日、彼は車の中で発見された。
あるいは車の中でちょっとだけ眠りにつくだけのつもりだったのかも知れない。
しかし彼は二度と目を覚ますことは無かった。
精神安定剤のオーバー・ドーズ…37歳だった。


「みんな大スターになってゆくんだろうな・・・」

かつてディラン・セッションの後ツァーに誘われた時、それを断って彼は言った。
それはやっかみでもなくただの感想を述べたものだろう。
彼はおそらく冨や名声なんてあんまり気にしなかったんだと思う。
ただ楽しく思うようにギターが弾ければメンバーが誰だとか場所がどこだとかは
おかまいなしにギターを弾いていることができたのだろう。
 
この言葉には続きがある。
 
「・・・でも僕はただ、ブルースが演奏りたいだけなんだよ」
 
 
 


泣きそうになる。    (完)

 
posted by 地味・・・偏 at 02:46| Comment(2) | TrackBack(0) | Rock | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>「・・・でも僕はただ、ブルースが演奏りたいだけなんだよ」
自分、そう思って業界に入った大バカモノです(笑)
仕事で、モロブルースをやれた事は一度もありません(爆)


Posted by t_monk at 2006年06月28日 01:53
★t_monkさん

うちの兄貴もブルースが演奏りたくてデビュー直前のバンドに加入しかけましたが、結局方向性が違うと辞めちゃいました。
日本の業界でブルースで成功した人はいないという悲しい現実は今でもつきまとってますね(泪)。


Posted by 地味・・・偏 at 2006年06月28日 21:13
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